2006年6月

心の元気塾ー6月ー

昨夜、第3回の心の元気塾がありました。印象に残ったお話をご紹介します。

『共命之鳥』と『無明存在』
 共命之鳥(グミョウシチョウ)とは、阿弥陀経にも出てきますが、羽や胴体は1羽で、頭が2つある鳥です。お浄土の世界では仲良く共存共栄しています。が、娑婆では、例えば、2つの頭をAとBとします。Aは自分だけなら悠々と暮らせると、Bに毒を与えます。当然Bは死にます。しかし毒が体に回って、やがて
Aも亡くなります。
 もう1つ、例え話です。ここに1�bほどの長いお箸があります。それで目の前のごちそうを食べよと言われますが、上手く口に運べません。でも、その箸でいっしょにいる人に、ごちそうを与えることはできます。そして、自分も誰かからいただくことも出来るのです。
 でも無明(ムミョウ)存在の私なら、Aのようになったり、長い箸をもてあます自分になったりします。無明とは真っ暗闇、自分の心のシャッターを閉め、自分の心を守って、都合のいいことは入れ、悪いことは排除、自分さえ、自分の家族さえ良ければ、相手はどうなってもいいとなるのです。
 今世の中で起こる事件の数々も、結局発端はこんな考えからではないでしょうか。親も子も、先生も経営者も…


『何が解決すると、心が元気になるのか?』
 元気という言葉のイメージは、明るい・前向きです。ですから、この塾の第1回のお話で、お釈迦様の説かれた「四苦八苦」など、苦を見つめる、苦を捜す姿勢に、どうして苦から始まるのか?ものは取りよう、考えようではないかと、ずーっと思っていました。でも最近思ったことは、考えよう1つと言いながら、そこから逃げている自分、それを離して見ないようにしている自分に気がつきました。50代で直面してその時逃げたら、もし60代で同じ思いを体験しても、又そこに右往左往している自分がいるはずです。
やはり、お釈迦様が言われるように、苦をちゃんと見る、苦を苦として頂ける、そうすれば、何年か先、同じような体験思いをしても受け止めれる自分がいるのでは…ちゃんと地に心に根を張ることで、本当の元気が出るのではないでしょうか?「気晴らし」という言葉があります。たまには、ほしいもの買って、おいしいもの食べる、スポーツに興じる…時としてリフレッシュするのもいいことです。でもあくまでも気晴らしです。それが生活のすべて、それが幸せではないはずです。


『目をあけて眠っている人』
 目をつむって眠っている人を起こすのは容易いが、目をあけて眠っている人の目を覚ますのは、なかなかむずかしいです。人間は無くても我慢出来ることの中に幸せを追い求め、それがなくては幸せなど成り立ちようのない大切な事を粗末に考えています。例えば、子供が優秀で有名学校に入学するというようなことに幸せを追い求めるあまり、子供が健康でいてくれる、それなしには幸せなど成り立ちようのない大切なことを、粗末にかんがえているのではないか?「それなくしては、幸せなど成り立ちようのない大切なこと」「あたりまえ」のすばらしさの見えない人、そう言う人を「目をあけて眠っている人」というのだそうです。
 もう1つ私は思いました。こういう会に参加したり、本読んだり、ブログを通じて、このように自分の考えを述べたり…そんな私は「目をあけて眠っている人」ではないか?ご住職のニンマリうなづく顔が想像されました。でも身近にこんな機会に触れれることは幸せですし、ご住職の言われる「止観」一度止まって自分自身を見つめる、見ている矢印を人に向けるのではなく、自分に向けてみる、そんなことを繰り返しながら、この娑婆を生きていくのだと思います。

治療の選択

私の母が、先日腸から少し出血があるというので、今日大腸の内視鏡の検査を受けました。結果盲腸近くにポリープが見つかりました。今は良性ですが、2センチ以上になると癌になる可能性もあるというので、開腹手術でなく、内視鏡で切り取る手術を来週受けることにしました。そんなに大したことなく、その日だけ1晩入院する程度でいいそうです。


それとは別に、母がずーとお世話になっているホームドクターのような先生でしたので、今回程度ならいいですが、「もしこれから先癌になっても、もう80才過ぎてるし、つらい手術を受けるより、苦しまずに余生生きられる方法をとりたい」と余談のように話しましたら、先生が「例えば大腸ガンだったら、お腹がバンバンにはって腸閉塞を起こす。それでも手術しないというあんたの方が人殺しや」と結構きつく言われました。これは私の考えです。最終的には本人の母が何をのぞんでいるかで決定することなので、それ以上の話はしませんでした。


この後、私の心にずーっと尾を引くものがありました。射的ゲームのように出てきたものを、バンバン撃つだけが治療ではないはずです。60代なら病巣を取れば確かに楽になります。でも70・80代になれば、体全体が老いてきますから、手術やつらい検査で他がガタくることもあります。本人はこれを我慢したらきっと良くなると思って耐えても、予想ほどでもない状態にがっかりします。その精神的なケアも含めて患者とつき合っていただきたい思いがあります。ですから、私の何げない言葉にそこまで反論する医者の様子を見ると、腕の信頼ではなく、心の信頼ができなくなります。


先生も治そうという一心ですから、そんなにネガティブに考えるのは気の毒かもしれません。でも考え方も価値観も色々です。「そうやな、確かにそれも一理ある。でもな・・・」―こんな会話の中で患者や家族が納得しながら治療に当たれる、そんな余裕もあってほしいです。患部の回復経過以上に患者は心や体の不安と戦っています。それが解る医者と巡り会うと会わないでは、心の安定は全然ちがいます。そんな体験談ありましたら、是非お聞かせ下さい。

慢性の病気とつき合う。

先日も1日の3人も人から、「ゴルフ焼け?」と言われました。アトピーの影響で今も赤らんだり、黒っぽかったりします。「いいえ」としか言えなくて、内心自分では良いつもりだけど、目立つのかな?…憂鬱になります。相手も気楽に言うことだし、私も「そうそう、リッチでしょ」とさばけて言える心の太さがほしいなと思います。


でも随分治ってきました。今いつでも出かけれる状態が本当に幸せです。体調はどこも悪くない、だけど顔とか見える所が湿疹状態、それも急に出てくることもあります。約束していても、やっぱり出かけるのがつらくて急に断ることも何度かありました。「ドタキャンのえみこ」とよく言われましたが、行けないことも、そう言われることも本当につらいし、くやしかったです。でも人ってどこまでも望むものです。その頃は見えない箇所ならどんなに症状が出てもいいから、顔だけは治ってほしいと思っていましたが、1年ぐらい経って、顔の方が治まってきて、今度頭皮や体中が痒くてたまらないと、夜も眠れないとか、これ何とかしてほしいと弱音が出てきます。要は辛さに耐えれない、我慢強くない人間なんです。


西洋医学の限界も感じたので、その系統に薬は全部ストップ。そして人がいいと言うことを片っ端からやりました。漢方・岩盤浴や野菜ジュースのデトックス効果・食事療法・整体・水・諸々のサプリメント…一時期は、その1つ1つに賭けるぐらいの意気込みで始め、効果がなかなか出ないと、これもダメかと失望したりもしました。でも今は自分がこれは何かいいと感じたものは、効果を焦らず全部やろうと決め、そのほとんどを平行してやってます。


最近感じていることは、慢性の体質的な病気は自分でしか治せないということです。自己判断に偏りすぎるのも危険ですので、診断はうけてますが、決して薬では治りません。治っていたら、待合室にあんなに一杯患者さんいないですよ。食事はもちろんですが、整体も只受けるばかりでなく、朝晩自分でストレッチをする。すると昨日より今日は体がかたいとか敏感にわかるようになります。今日はコンピューターをしている時間が長かったとか、猫背の悪い姿勢でいたとか気づいてきます。そしてその箇所をいつもより念入りにほぐしてあげる。それだけでも体は喜ぶし気も流れます。だいたい病気を持っている人は気が流れていません。特に自分の弱い箇所で滞っています。縮んでいる関節をのばしてあげて、座禅もいいんです。鼻で息を吸って、丹田(おへその少し下で、背骨の下の部分)に流すイメージで吐きます。これを毎日します。


自分の体に向き合う、体に気や手を入れる、そのことを真剣に、気長にやらないと慢性の持病は治らないと思っています。私も完治したわけではないので、そんなに偉そうなこと言えませんが、腰をすえてかかった時、初めて根が生え育っていく何かが、病に勝つのだと思います。絶対楽な手段を選ばないように…