2006年9月

ありがたい

知り合いの奥さんがガンになり、親しくしているその娘さんが、時々私にメールを送ってきます。そこには、母親のガンを知って、動揺する思いがつづられていました。たまたま私も同じ病気の経験者ということで、初め手術後の様子など聞いてきましたが、時間が経つと共に、いかにお母さんが自分にとって大切な存在だったか切々と書いてきました。今年大学も卒業して親元離れて就職しています。もう大人のつもりでいたけど、やっぱりお母さんなくして自分は生きられない、今までどれほど大きな愛情の中で育ててもらったか、改めて感じているようでした。


私も返信の中で、今までお母さんは元気で働いているのが当たり前・・・の当たり前が本当にありがたく思えるよね?ありがたいは「有り難い」(むずかしい)ことなんです。でもその歳で気づかせてもらうのは、いいことだと思う。今の気持ちを生涯忘れないようにね・・・と伝えました。


よく初詣などで、「家内安全」「無病息災」とかお祈りしますが、では、病気になったりすることは本当に不幸せなことなのでしょうか?自分自身の経験から言っても、私は病気になったことで、多くのことを学ぶことができました。ガンとわかる前日まで、仕事の人間関係や諸々悩んでいたことが、ガンと言われた瞬間、悩むことも生きているからできること、死んだらそれすらできなくなるんだ・・・そう思ったら、悩むことも言い合うことも、ほのぼのとしたイメージになりました。生きていれば、生きたい、治りたい、只それだけでした。その思いは多分家族も同じ気持ちだったと思います。だから、もう一つ強い絆も生まれるし、どうってことない話題で笑いあうことが、心から幸せ、ありがたいと思える気持ちになるのです。


これは今元気でいるから言えることかもしれません、でも物事は見方ひとつ。できるだけいい風に、前向きに考えることを心がければ、これから先出あうことにも、乗り越える力となるのではないかと思っています。私もこの親子のおかげで、6年前の自分を思い返す機会を得ました。

ご法話ー2−

昨日聞いた法話をご紹介します。これも私なりの受け取り方で、文章書いてますので、話される方とのギャップはご了解下さい。


最近ちまたに起こる事件、親が子を、子が親を、そして仲良かった友達を、また全然顔見知りでもない、たまたま通りががった人の命まで奪うような、心の荒んだ事件が頻繁にあります。どうして、どうしてこんな世の中になったんでしょう・・・?


ご住職はお話を続けます。日本中が大事なまなざし、大事な尺度を忘れかけている。それは、
 「もったいない」 (勿体ない)
 「お陰さま」
 「お互いさま」
 「仕舞うていきなさった」(しもうていきなさった)

この言葉は、生活・体にしみついた言葉です。こういう言葉を最近聞かなくなりました。それは、学校教育の変化です。次のような言葉はよく耳にします。
 「がんばって」
 「何でもできる」
 「お金・ものが豊になって、しあわせ」
これは、すべて人間中心主義の発想であり、私が頑張れば、何でもできる、そして、お金や物が豊かになって、私は幸せになるという、自己中心主義になっていきます。この世に誕生することも、この親の元に生まれることも、何1つ、自分のはからいでできることないのに・・・です。


「勿体ない」の勿体=物体です。例えば、米が口に入るまで、88人の手にかかっていると言われます。だから、1粒も残さずいただこう、その大事さを知らないことを「勿体ない」と言います。

「お陰さま」は、もののもう1つ裏にある心を言います。今私がここにあるのは、多くの人のお陰で生かせてもらっているということです。

「お互いさま」は、たとえば、「先日は○○していただいて、ありがとうございました」と言われた時、「いいえ、お互いさまです」という言葉が返ってきたら、すばらしい人間関係が生まれます。この心を見失うと、自己中心主義になります。

地方の方言ですが、「仕舞うていきなさった」とは「亡くなった・死んだ」ということですが、死んだというと味気ないですが、この仕舞うという字から伺えるように、いただいた命を全うして、み仏の元に帰られたという意味あいがあります。

仏教の底辺には、こうような言葉・考え方がふんだんにあります。今の世の中こそ、見失いかけたものを改めて見つめ直して、次に伝えていくことが大切なのではないでしょうか。

ご法話ー1−

昨日、桑名別院婦人会報恩講があり、輪番様がお話しされました。内容をご紹介します。但し、いただいたプリントと私のメモ、受けた感想も入っての文書ですので、その旨ご了解下さい。
浄土真宗のお立場からのお話です。


よく「自力」とか「他力」とか言いますが、「自力」とは、我が心、我が身、我が力に頼るものです。しかし、その身も力も病や老いに出会うことで衰えたり、心もその状況で迷ったり戸惑ったりします。その元となる考えは、自分たちの人生、自分の思い通りいくことが全てで、予定通りにいくことを善、いかないことを悪と考えます。そして、予定通りいかないと、何か原因があると考え、「何とかせんといかん」と思います―この思いを仏教で「魔」といいます。ですから、お祓いを受けて無病息災、お守りを持って無事故、壷を買ってお金が儲かる、又、祟り(タタリ)の霊・守護の霊…そんなことに右往左往します。

魔に呼応していく私達の意識構造を、親鸞聖人は『罪福心』と教えておられます。罪福心の「罪」は自分にとって都合悪いこと、「福」は自分の思い通りになることです。これは人間である限り誰にでもあります。節分に豆を蒔きながら言います、『鬼は外、福は内』、これは本当に罪福心の現れです。でも、そんなに上手い具合に人生いきませんよね。


でもこれで本当にいいのでしょうか?ごまかして、目をそらして、気楽に生きたい…これって何一つ解決していません。正面から何事も(病も老いも災いも)あるがままに受け入れる、しっかり頂く人生にするためには、自分一人の力ではなかなかできません。ゆらぐ自分の根性を気づかせてもらうには、仏法に出会う、仏法に聞くしかないのです。『経教(経本の教え)は鏡の如し』と云い、一番見にくい自分、いい加減な生き方をしている自分を示してくれます。仏法を聴き続けることは、生涯常に私自身の有り様を聞き続けることです。


午後の座談会で、会員のおばあさんが円座の中でお話を始めました。そのおばあさんはご主人と息子さんを戦死で亡くされてます。別院にご縁をもたれて30年近く、ご法座にもだいたい参加し、週に1回は境内のお掃除をしていました。5月に体調をくずされ先月まで入院してました。そのおばあさんはこう話始めました。「生きていくことは苦です。でも別院さんにお参りに行きたくて行きたくて、今日も家族が心配しましたが、どうしても来たくて、来させてもらいました。どうぞ皆さんお寺さんには、あの人も来てるからとか連れてこられて来るんではなく、自分の気持ちで来て下さい」と・・・


お寺に出入りしていると、「ありがたい、ありがたい」とよく口にする人はいますが、開口一番「苦」ですと言う人もめずらしいです。でも私は心をつかれました。あれだけ、お参りしたり、ご奉仕したりすると、これで私は幸せ、幸せになれるとかけひきしてしまします。でもそのおばあさんには、そのかけひきがない。
あっぱれです。このおばあさんこそ、仏の智慧を聞くことで、文句云わない、後悔しない、そして堂々とした生き方をしているのではないでしょうか。