2006年11月

分際

「分際」って言葉、
あ〜、言われたことある、でも最近聞かないですよね。
「学生の分際でー」「嫁の分際でー」・・・


これはテレビの中での話です。
「分際って、差別用語とかいわれるけど、これって大事と違う?私も片親で子供の頃、片親の分際でって言われたけど、だから親を早く楽させたいと頑張れた。近所のおばちゃんも助けてくれた」
「人に言うのはいけないそうだけど、自分で思うことは必要ですよね」


確かに最近あまりこの言葉を聞きません。でも私もやっぱり自分を知るということ(分をわきまえる)という分際という言葉は大事だと思います。経済的な面、家庭環境、障害・・・自分に関わっていることに対して、正面から見る、ぶつかる精神は、自分が何者かを知らないと力も意識も出てこないと思います。かわいそうだけど、自分で向き合うしかない、親が手を貸すにも限界がある・・・そう思います。


子供可愛さにしてあげる、買ってあげることが子供を勘違いさせて育ててしまう、親よりもいい服着てるなんて言語道断です。これだけ働いて、これだけ収入をえて、そこそこの貯蓄もできたら、こんな洋服もいいでしょう、こんな車もいいでしょう。だから、働く励みも出るし頑張れるのです。スタートから満たされていたら、何を目標に働くのでしょうか?


自分の分際を知り、今の自分に何が必要か考え、そして目標を持つ。だから働ける、だから頑張れる。私たちの世代が勘違いさせるような、育て方・与え方をしたばっかりに、目標もできずに生きること(食べること)は親がしてくれると大甘の10代・20代を作ってしまった。あきらめないで、今からでも軌道修正は遅くない、身内・他人さんみんなの力で変えていく力を出し合いたいと思います。

「オロオロ」

昨日、松山千春のコンサートに出かけました。
彼のコンサートは、弾き語りというより、語り語りというほど、トークの時間も多いです。曲もロマンをおう曲も多いですが、メッセージ性の強い曲もあります。昨日はやはりいじめとか自殺の話もありました。学校が悪い、教育が悪いと原因をつきとめれば、解決できる問題でもないでしょう。でも、天がこの世に授けた命、絶対生きる意味があって、この世に生まれたはず。いじめられても、つらくても、とにかく生きろ!生ききろ!と強く訴えてました。その後、自身作詞作曲のこんな歌が流れました。


お前を抱きしめる  強く抱きしめる
悲しみも苦しみも  全て抱きしめる

何も出来ないから  じっと抱きしめる
悲しみや苦しみが  通り過ぎるまで

オロオロ  泣きなさい  オロオロ  泣きましょう
不運な事に人生は  一度きりのものだから

お前を抱きしめる  強く抱きしめる
教養も力も無い  せめて抱きしめる

うろたえるばかりで  情け無いくらいさ
愛してる  愛してる  だから抱きしめる

オロオロ  泣きなさい  オロオロ  泣きましょう
不運な事に人生は  一度きりのものだから

オロオロ  泣きなさい  オロオロ  泣きましょう
不運な事に人生は  一度きりのものだから


親ができることって、これだけだ、これしかできないんだ・・・
私にも3人の子供がいます。もういい歳です。でもこれから先、何があるかわかりません。子供が境地にいる時、大人の娘や息子を実際抱きしめられないかもしれない。独立して連れ合いや家族ができれば、猶の事親の出る幕はないかもしれない。でも、いつでも遠く離れていても、気持ちはこの歌詞のように、「お前を抱きしめる、強く抱きしめる、悲しみも苦しみも、全て抱きしめる・・・」これしか親にできることはないです。でも、これが一番子供にとって心の支えになるのではないでしょうか?
熱い想い、暖かい心をもらったコンサートでした。

千の風になって

昨日、法盛寺うたおう会のコーラス練習日でした。
「千の風になって」という曲を初めて練習しました。歌詞をご紹介します。

  私のお墓の前で泣かないで下さい
  そこに私はいません、眠ってなんかいません
  千の風に 千の風になって
  あの大きな空を 吹き渡っています

  秋には光になって 畑にふり注ぐ
  冬はダイヤのように きらめく雪になる
  朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
  夜は星になって あなたを見守る

  私のお墓の前で 泣かないで下さい
  そこに私はいません 死んでなんかいません
  千の風に 千の風になって
  あの大きな空を 吹き渡っています

  千の風に 千の風になって
  あの大きな空を吹き渡っています
  あの大きな空を吹き渡っています


身近に死を経験された方は胸にジーンとくるものがありますよね。
私も一緒に入院していた友(ガン友といってます)が3人亡くなりました。子供さんがまだ幼かったり、結婚前の子供をもつお母さんです。また自分が運転していて事故にあい、同乗していた実姉を亡くした友人もいます。どんな慰めもできません。よく残された人の想いを綴った歌はありますが、亡くなった本人の思いをうたう歌は少ないように思います。でもこの曲を聴くと心が癒されるような気がします。私もたまたまこの詩の載っている風をモチーフにした写真集を、ご主人を亡くされた友人に1年半程前贈ったことがありました。でもこんな素敵な曲がついたのは、昨日初めて聞きました。

12月16日、法盛寺様の報恩講の最後にこの歌をご披露します。午前中からおまいりもあり、ご法話もありますので、関心のある方は是非おまいりに来て下さい。ご法話は前平安学園校長の遠山先生です。


先ほどの「千の風になって」の詩の内容は、私は死んでも、いつもあなたのそばにいるよという、残った人を励ましてくれるものです。だからといって、生と死が分け隔てないということではありません。最近の自殺のニュースには本当に心痛いです。決して死でもって逃げたとか、命を軽んじていると死者をせめる気持ちはありませんが、私は死に対してこう思っています。


みんな砂時計を持ってこの世に誕生します。自分で選ぶことはできません、砂時計の大きさはみんな
色々です。砂時計の砂は下から上へは移せません。その最後の砂が落ちた時が、「死」です。
だから悲しいけど、時間もかかるけど、その砂が落ちきった現実を受け止めて、死んだ人も残された人も「千の風になって」の歌詞のように思える時がくるのではないでしょうか・・・自殺も寿命かもしれません。でも、砂時計のガラスを自分で割ることはしないでいただきたい・・・心から願います。

いじめによる自殺について思うこと。

相次ぐいじめによる自殺が、テレビ新聞等で報道されてます。つらい思いをした被害者を見て見ぬふりをしてきた大人の責任は否めません。しかし・・・


「先生はいじめに気がつかなかったんですか?」と当事者の親の言葉に、「ちょっと待って!そういうあなたは、我が子の精神的な苦悩に少しも気がつかれなかったんですか?」と私は問いたいです。もちろん、学校・教育現場による先生方の対応には問題ありです。教師の資格もありません。でも、まだ十代の死、そのご家族の悲しみだけにスポットをあてると、正義感をふりかざす一部の報道で、絶対的に学校側を追い詰めています。学校の改善ももちろん必要です。でも・・・


知り合いの保育士のお話で、保育園では友達いじめたりしている子供が、母親がお迎えにくると、コロッと「いい子」に変身する。この子は家で緊張し保育園でその発散をしている。親がどれだけ自分の子と向かい合っているか?子供が「お家が一番」と思う家庭作りをしているか。きょうの中日新聞にも、「帰れる家が救いー」という意見が掲載されてました。全文をご紹介します。


いじめを隠していた学校もいじめた子供も悪いでしょうが、自殺を食い止めれるのは親なのではないでしょうか。私もいじめられた時、母親から「学校にいかなくていいよ」と言われ、とても救われました。親の存在の大きさを感じました。「いつでも休んでいいんだ。嫌なことがあっても、帰れる家があるんだ」と思えたのです。


決して当事者の方をせめる気ではありません。でもこの子たちが自分の死を持って社会に訴えたことは大きいと思います。学校教師の在り方はもちろんですが、親子の関係、家庭環境、命の尊さ・・・いろんな角度から、日本全体で真剣に考えようと受け止めるべきです。決して学校側の改革の任せることではないし、先生方も役人根性をかなぐり捨てる覚悟も要ります、そしてそれができないような先生なら、お辞めになった方がいいです。花や野菜を育てるのと違って子供を育てることは、その子の一生をも左右します。先生もオールマイティじゃないのも解ります。でもまず第一に、人が好き、子供が好きーそこからエネルギーをもらえる先生であってほしいと思います。

一部報道に流されないためにも、皆さんのご意見をお聞かせ下さい。

中村久子さんって、ご存知ですか?

10月30・31日、桑名別院婦人会の研修旅行に出かけました。お天気にも恵まれ、秋の色濃い飛騨路を1日目飛騨古川、2日目高山に向かいました。飛騨古川では野麦峠、女工哀史で知られる「三寺参り」に縁のあるお寺をたずね、高山では、高山別院、そして中村久子さんの檀那寺である真蓮寺を訪れました。


中村さんは4歳の時、突発性脱疽(高熱のため肉が焼け、骨が腐っていく病気)で両手両足を切断しました。関節もすべてです。父上も心労も重なって、早くに亡くなり、母上の再婚先で、学校にも行けず部屋に閉じ込められた状態で何年も過ごしました。しかし、その間も、母上や祖母や「出来ないことはない、やらないから出来ないのだ」と厳しく久子さんを躾けます。何年もかかって、筆を口にくわえたり、頬と肩の間にはさんでの書道、着物をはじめ、お人形作り・レース編みなど、どれも見事なできばえです。出来ないのは、着物を着ることと髪を結うことと言われるぐらい、出産・子育ても含めてやりきった方です。彼女の作品が展示されており、一針一針、一筆一筆、その重みが私たちに感動を与えます。


私たちが訪れた真蓮寺のご住職が、その中村久子さんの様子・語りを詳しくお話して下さいました。これは彼女の言葉です。「現実を引き受けたところにしか真実はない、現実を引き受けたところにしか幸せはない、現実を引き受けたところにしか本当の悲しみや苦しみは解らない」「物質的満足だけでは心の満足は得られない」・・・日々体を使う精進の中、ご自分の心を見つめ続けます。そして信仰の心が深く深く宿ります。


私たちはお話を聞いて「偉い人やな」「私ならようできん」・・・こんな事を思ってしまいますが、久子さんがご自分の身体・人生をはって私たちに訴えていることは、そんなことではないでしょう。久子さん作の一句です。「過ぎし世に いかなる罪を犯せしか 拝む手のなき 我は悲しき」


拝む手を持ちながら拝むことができないでいる世界と、拝む手が失われているのに全身で拝む世界を発見した人・・・環境も物質的にもどんなに恵まれていても満たされない人、世間が言う不幸な状態にあっても幸せを感じれる人、これは自分自身の心の有様、見つめ方だと思いました。