2008年9月

袂酒(たもとざけ)

「袂酒」―ご存じですか?
私は全く知りませんでした。
名古屋周辺地域、三重県北部にある習慣で、縁談が決まったら結納の前に両親でお酒を持参してご挨拶に伺うという習慣です。親の立場から見ると、子供の結婚相手はよく会うし話もするけど、相手の親は知らないとか、男性側の親にしてみれば、決まった事とはいえ親がお願いにあがるのが筋だとか、お嫁さんになる人がどんな環境で育ったか知りたいとか・・・色々根拠はあると思います。


ウチの場合は私たちや祖父母も会っているので、内心面倒だな省略してもいいんだけど・・・思いました。でも仰々しくはなくても、伝統的な形で進めたいというご両親の希望もあり、昨日その袂酒を執り行いました。水引で飾られた樽やお酒、するめを並べてあちらの親御さんからのご挨拶、その後はお茶とお菓子で歓談です。娘や私の親も加わって小1時間楽しくお話ししました。


最初は緊張していた私ですが、こういう儀式を通して相手のご両親とも親しくなる、これは自然の流かな?と思いました。現代は自分たちだけで結婚式したり、しない人もいるそうです。でも結婚して籍に入れば親戚としてのおつき合いも始まります。その時親しくおつき合いなければ、出向くのにも違和感があるでしょう。時間と儀式の中で実感が湧いてくるものなのかもしれません。


今は合理的、省略、手間をかけない…そんな事が優先する時代ですが、結婚だけでなく不幸がおこった時も同じです。亡くなると病院から即葬祭会館へ運ぶ事も多いと聞きます。故人にしてみれば、入院中どれだけ我が家に帰りたかったことか・・・。そして初七日や七七日回忌も会館やお寺でする事もあります。お参りももちろん必要ですが、故人が暮らした家に子供親戚が集まって、故人の思い出話をする―法事とはそれが第一目的ではないですか?


楽にする、省略するということは、ともすると心をどこかへ置き忘れます。面倒だからこそ家族の協力も得てその日を迎える。支度をしている内に自分の心も家族の心も同じ方向をむく。その作業は、今回の事を経験して大切だなと感じました。(これは状況によって可能不可能ありますが)

心の姿勢

半月ほど前あるお寺のお参りに行きました。
正信偈のお経の間も、足もしびれてきて、「南〜〜 〜無(ナアアーアーム〜)…」、「どうしてこんな伸ばすんだろう?」「このお経をありがたいと思えないな〜」・・・
次にご法話が始まりました。そのお話が又、脈絡がなくって、何をお伝えしたいのか、なかなか解りづらいものでした。「ごえんさんも、もっとみんなが気を引く話工夫すればいいのに…」・・・
こんな思いの私でした。


それから数日後、お参り仲間の人とお茶する機会がありました。その時、いつもお参りにみえるおばあさん(90才近いです)の話題になりました。そのおばあさんは、ご自身ももちろんですが娘さんにも、お寺へお参りに来た時は、できるだけ最後まで居て、本堂・境内にゴミが落ちてないか、よ〜く見て帰りなさい―と言われるそうです。


私はその話を聞いて、頭をガーンと打たれた、そして本当にはずかしくなりました。先述したように、お経がどうだ、お話がどうだと思っている私、そのおばあさんはお寺に来る事自体が、もうありがたいことなのです。そのことを、一昨日あった「心の元気塾」でお話ししました。そうしたら、ご住職が同じような話が私にもあるのですと話し始めました。


檀家さんが畑でとれた野菜を持ってきてくれました。出来がとても良かったので、一瞬これ店で買ったら高いだろうなと頭をよぎりました。そして「おばあさん、野菜作り上手やね」というと、そのおばあさんは、「今年はお照らしがよかったでね」と言いました。決して、「私うまいやろ」なんて言われません。


ものを見る時、どこに眼差しがあるか?この2人のおばあさん、いっしょの眼差しを持っていると思います。深いですよね。「アレあかん、コレあかん、私ええやろ?・・・」そんな表面的なことに振り回されない深い見方・思い方があれば、ブレないんですよね、心が。

幸せの基準

「基準」という言葉は当てはまらないかもしれません。
でも人はどこをもって、「幸せ」「不幸せ」と感じるのでしょう?
これは「当たり前」をどこにもってくるかで、案外違いがあるように思います。


娘が縁談がまとまり、来年2月結婚することになりました。
2人で決めて同居するそうです。自営ですので、朝昼晩食事も一緒です。
その話をすると、友人たちは「たいへんね〜え」という反応をする人が多いそうです。確かに私も初めは大丈夫かな?と思いました。でも先日この両親にお会いして、「この方たちならいいか」と感じました。やはり人柄でしょうか・・・体験した人には、甘い甘いと言われるかもしれません。長く一緒にいれば意見の行き違い・もめ事・・・多分あるでしょう。でも、それを避ける為の別居が本当に自由で気楽で一番なのでしょうか?


相性・ご縁・・・色々な要素もあると思いますが、一緒に住もうと思った娘たち、そしてご両親にエールを送ります。私はもし跡取り息子が一緒に住もうと言っても、まだいいって言いそう、親も気を使ったり、美味しくもないご飯一緒に食べるのも、結構たいへんと思います。だから双方とも偉いです。


娘には言ってますが、気楽で自分の思い通り暮らして50才になるより、いつも少しは回りの人に気を使い、思いやっての50才の方が、人間的には素敵だよ。どこをもって、「幸せ」と感じるか「不幸」と感じるか・・・それは人それぞれだけど、大切なのは自分の心の持ち方ひとつ。


我が家の母を見ていて思います。現在デイサービスも行ってますが、何の後遺症もありません。だけど、退院の時のあのうれしそうな顔、心から「ありがたい」と言っていた思い・・・今もその思いには変わりないと思いますが、1時間ごとに熱を測って病気さがしの毎日。当たり前のラインが上がってくると、思い方も変わってくるんだ・・・私たちに何を求めているのか・・・わかるけど、これ以上は自分自身の問題と傍観する毎日です。