「心の元気塾」での話です。

今月も26日にありました。「歎異抄」についてお話伺ったり、色々たずねたりしています。

話が少しそれて、歎異抄9章で弟子の唯円が親鸞に「念仏をしておりましても、心が躍り上がるような嬉しさをおぼえない時がございます・・・・」と質問をしたら、親鸞が「そうか。唯円、そなたもそうであったか。この親鸞もおなじことを感じて、ふしぎに思うことがあったのだよ」と言っている一節があります。その話を例にとって、講師の先生が「念仏をいただく姿」について話されました。

法話を聞く時の主人公は講師じゃなく聞いている私自身。聞いている人に一言でも心に響く話があったらそれでよし。ウトウト眠くなって何にも覚えてない時は聞かなくていい時なのです。それを「今日のお話は良かった(つまらなかった)、おの先生のお話はいいの悪いの、今日は人の入りが多いの少ないの、今日はあの人来てないね・・・・・・」 そんなことは関係ないと思います。 元気塾も4年目に入ってこのメンバーは古参です。もし初めての人が来て、ウロウロしていたら、「今何頁!」なんてベテランの顔したらいかんのです。

その中の1人が言いました。家の人に何年聞いてても変わらんな・・・て言われたと。これも法話を終身の時間と勘違いしてみえてますね。確かに私もそう思って参加していました。しっかりメモもとって、「こんな時はこうやって考えたらいいのか・・・」など学ぶ気満点でした。でも、同じような内容の話を聞いても、聞く自分自身の状態によっても受け取り方・感じ方も違うでしょう。例えば、大病したり、連れ合いをなくしたり・・・色々な状況で思い方も変わるでしょう。

お話を聞くご縁頂いたことで御の字。ここへ足を運ばせて頂いたもの阿弥陀さんのお力、ウトウトしたら、「まあ、寝ててもいいやろ」という仏さんの計らい、フッと目が覚めてその後のお話の一節が印象に残ったとしたら、それも仏さんが起こして下さった・・・何か自主性のない話ですが、それぐらい気負わずご縁に当たる、仏さんの計らいを素直に受ける・・・これが「念仏をいただく姿」と言うことかなとおぼろげに思いました。

気負って「心の元気塾」をスタートさせた私たちの何か胸のつかえがとれたようなお話でした。

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